西伊豆を走る ロードスターとウラヌス号
11月25日、西伊豆を走ってきました。
夜に、雲見温泉で以前他の場所での仕事で関わった人たちと
落ち合って宴会をするので、
それまで久々に一人でのドライブ。

東名高速 足柄SAからの富士山もくっきり。
でも、ここまで行くのに大渋滞で2時間かかった(泣
高速じゃないジャン!
達磨山付近のレストハウスから。
ここまで行くのにも沼津を抜けるのに1.5時間…。
ここで富士山を見ながら一休み。
峠道を久々にエンジンを回してブンブンはしる。
(飛ばしたという意味ではない)
もちろんフルオープンで。
晩秋の紅葉、冷涼な空気。
コーナーを曲がり得られる遠心力、
タイヤから伝わる路面、
甲高い音で力を発生し続けるエンジン。
確実に反応するステアリングとアクセル、
そして官能的なエグゾーストノート。
”やっと走れたね”
久々に、愛車と楽しみを共有した。
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最近、自分の人生に不安ばかり感じていた。
これからどうなるのだろう、とか、
まだ見ぬことへの漠然とした不安にとらわれていた。
”そういえば一昨年もここにきたっけ。
私生活でも色々変わったなあ。”
”でもね、なるようになるさ。”
なんか、安心した。

西伊豆スカイライン。この道はいつ来ても、気持ちいいが、
走りやのおかげで路面が真っ黒。
ここぞとばかりにかっ飛ばしているバイカーも多い。
彼らから税金たんまり取ってください。

戸田村をみおろす。
夜は、雲見温泉の網元民宿で仲間と落ち合い、
あわびの踊り焼きでした。。。
あわびさん、おいしくいただきました、ありがとう。
それにしても、やっぱり、日々におわれて忘れていたもの、
ロードスターと走ることの価値、
きれいなものや美しいものに触れる価値、
”なにもない”ということがあることの価値を
再認識した気がする。
この前、この車を手放す夢を見た。落ち込んだ。
失恋したような感覚だった。
でも、いつかこの車を手放す日が来るのだろう…
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そういえば、硫黄島関連の映画をやっているが、
硫黄島で戦死した日本軍の中に、「西竹一大佐」がいる。
西は、馬術障碍(しょうがい)競技のスペシャリストで、
戦前のロスアンゼルスオリンピックであとにも先にも日本で唯一の
金メダルを取るなど、
「バロン(男爵)ニシ」として国際舞台で活躍した人だ。
西のパートナーの馬を、ウラヌス号という。
イタリアの気が荒い馬だったようで、ほかの人も手をもてあましたのだが
不思議と西には心通わせたという。
馬術障碍の大会。
西が、うまくウラヌス号をリードしていく。
障碍を飛び越えるとき、ウラヌス号はひょいっと体をひねって
工夫して飛び越え、西を助けた。
そして、西は優勝後のインタビューでこういった。
「We won!」(僕たちはやったんだ!)
それまで、馬は人間の道具だった。
だから、当然「I won!(私は勝った)」が普通の感覚だった。
でも、西にとってウラヌス号は、ウラヌス号じゃないといけない
何物に変えがたい大切なパートナーだった。
この言葉は当時、戦前で対日感情が悪化する中においても
アメリカの人の心をつかんだ。
西は、ロサンゼルスの名誉市民になった。
「バロンニシ、デテキテクダサイ、アナタヲソンケイシテイマス」
硫黄島に張り巡らされた日本軍の地下要塞に立てこもる
西に向かって、アメリカ軍は拡声器で呼びかけたという。
(真実は疑わしいと考えられているが、偽だとしても、
それだけ親しまれた人であるということだろう)
しかし、西は多くの部下を死地に追いやった軍人としての
使命を全うし、昭和20年3月22日、自ら突撃後に斃れた。
西大佐は、戦場に出てからもウラヌス号のたてがみを
常に大切に持ち歩いており、それも戦死した後に発見された。
1週間後、東京の馬事公苑で余生を送っていたウラヌス号も
西を追うように息を引き取った。
時代になじまない派手好きなお坊ちゃま。軍隊でも反感を買った。
「自分を理解した人は少ない。でも、ウラヌス号は理解してくれた」
彼らは、場所は離れても心は一緒だった。
ちなみに西大佐はコンバーチブルに乗っていた車好きでもあった。
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さて、今度は、どこに行こう?
もっとたくさん、いろんなものを見に行こうよ。










灯篭も帽子をかぶる。















…





峠の釜飯「おぎのや」





R299を走る。
上信越道から噴煙を吐く浅間山を望む
なにやら山中に車がとまっている…
おや、看板があるぞ
松の間の小道を歩くこと5分…
建物が見えたぞ 
店内を松が貫通。
土瓶蒸しであります
なべであります。
テンプラ
お吸い物
マツタケご飯




