中身の見えない『安全宣言』で原発を再開されるよりも、
後戻りすることになってもよりしっかりした「検査」「対応」をしてもらって原発を再開してもらうことは、本来、国民としては望むべきところではないのか。
たしかに、手順的に「もっと、最初から考えられなかったのか」というのはあるかもしれない。
だが、だからといって「あいまいな安全宣言」で進むのを是とすることは望ましいこととは思えない。
福島が相変わらず収束が見えない現状であることに変わりなく、
原発に万が一ということはいつでも起こりうることがはっきりし、
万が一のことがあった時には、節電でいままでより不自由な生活をするより、
はるかに厳しい状況や不自由、場合によっては生活の困難に直面することも分かり、
積み上げてきたものをすべて失うことも考えられ、
そして、人は放射線を克服できないこと、
低線量被ばくではすぐに急性症状が出ないために長年健康への不安を抱き続けること、
自分と家族の身を守ることに自治体や政府はあてにしてはいけないこと、
いろいろと分かった。
原発廃止からエネルギーの転換を図る移行期間の入口においてより厳正なテストを行うのは、ごく当たり前のことだと思う。